「セラピー」

原題:Die Therapie

2006

 

<はじめに>

 

 この本を読んで、狂人の書いた推理小説ということで、夢野久作の「ドグラマグラ」を思い出した。(そんな風に書くとストーリーの種明かしをすることになるが。)「サイコ・スリラー」というカテゴリーに入るらしい。しかし、読み易い、テンポ良く読ませる小説である。

 

<ストーリー>

 

 ヴィクトール・ラレンツは四十三歳の精神科医。ベルリンに住んでいる。彼は、グロールケ医師の働く病院内で行方不明になった娘のヨゼフィーネ(ヨズィー)を捜し回る。娘のヨズィーはその十一ヶ月前から原因不明の難病に取りつかれ、徐々に弱っていた。ヴィクトールは妻のイザベルと共に数々の医師を訪れ、娘の病気の原因と治療法を探ろうとする。彼は仕事を辞め、診療所を他の医師に売り、娘の世話に専念していた。

 目を覚ましたヴィクトールは、自分が精神病院の病棟に、両手両足を縛られて、寝ているのに気付く。彼の担当のロート医師は、ヴィクトールに、

「この際知っていることを全て話せばどうか。」

と勧める。ロート医師の説得と熱意にほだされ、ヴィクトールは四年前にパルクム島で起こった出来事について話を始める。

 娘のヨズィーが行方不明になってから四年後、仕事を辞めたヴィクトールは、事件についての特集をする雑誌インタビューの回答を書くために、パルクム島にある両親から受け継いだ海辺の別荘に滞在する。ある日、彼はアナ・シュピーゲルという若い女性の訪問を受ける。彼女は、自分が児童文学の作家であり、精神科医であるヴィクトールのカウンセリングを受けるために島にやってきたと述べる。アナは自分が「統合失調症」(Schizophrenie)であり、四年近く精神病院に入院していたという。ヴィクトールかつて「統合失調症」の権威であった。もう診療は止めたというヴィクトールに、アナは五分間だけ話を聞いてくれと頼む。そして、ヴィクトールは彼女の話に引き込まれていく。彼女は、自分の小説の登場人物が、実際に目の前に現れるという幻覚に悩んでいた。興味を持ったヴィクトールだが、

「自分は現在それどころではない、他の医者を探せ。」

と言い、アナを帰す。アナが去った後、島の村長のハルバーシュテットがヴィクトールを訪れる。村長は、

「アナが汚れた危険な女であり、彼女を傍へ寄せることは危険である。」

と、ヴィクトールに警告する。

 翌日から、天候が悪化し、嵐になる。ヴィクトールが電話を取ると、それはアナであった。彼女は、

「嵐でフェリーが欠航になり、島から出られなくなった。」

とヴィクトールに告げる。そして、もう一度だけ話を聞いてくれと、ヴィクトールに懇願する。嵐の中をやってきたアナをヴィクトールは家に入れる。アナは自分が四年前、最後に書いた童話の話を始める。ある島の国王の一人娘シャルロッテが原因不明の病気になる。九歳のシャルロッテは自分の病気の原因を探すために家を出る。アナは物語を書き始めたものの、まだ結末までは書いていなかった。アナの語るシャルロッテの物語と、自分の娘ヨズィーの境遇が酷似していることにヴィクトールは気付く。ヴィクトールとヨズィーの住んでいた家は、湖の畔にあり「島」と呼ばれていた。また、ヨズィーは「プリンセス」と呼ばれていた。アナによると、その物語の題名は「青い猫」という。青い猫こそヨズィーのお気に入りのぬいぐるみであった。ヴィクトールは自分がヨズィーの捜査のために個人的に雇っている私立探偵カイに調査を依頼する。

 アナは翌日もヴィクトールを訪れ、話の続きをする。アナは、ヨズィーが行方不明となった病院の近くでシャルロッテを見つける。シャルロッテはアナに車に同乗させてくれるように頼み、アナは彼女を乗せて走り出す。シャルロッテは、

「自分が病気になった原因をあなたに見せたい。」

と言う。最初にシャルロッテが連れて行ったのは、森の中にあるバンガローであった。聞いているヴィクトールは、アナの語るバンガローの様子が、自分が森の中に持つ別荘にまたまた酷似していることに驚く。その場所は、彼が娘のヨズィーと妻のイザベルの三人で、夏の休暇を過ごした場所であった。ヴィクトールは私立探偵のカイに、森の中のバンガローを調べに行かせる。カイは窓ガラスが破られているのを発見する。そして、浴室の中に血の跡がることも。

 私立探偵との電話を終えたヴィクトールは、家の中から何かが消えていることを感じる。そして、自分が連れてきた犬、シンドバッドがいなくなっていることに気付く。ヴィクトールが犬を捜しているところへ、アナが現れる。嵐の中、ぬかるむ道を歩いてきたはずなのに、アナの靴がほとんど汚れていないことをヴィクトールは不思議に思う。アナは昨日の話の続きを始める。バンガローに入ったふたりは、誰かが奥の部屋にいる物音を聞く。シャルロッテは恐怖に怯えた様子で、アナの車に駆け戻る。そして、

「これから、私の病気のある場所へ連れて行く。」

とアナに言う。車中で、シャルロッテの病状が悪化し、アナは薬局で嘘をついてペニシリンを買い求め、シャルロッテに飲ませる。シャルロッテが案内した場所は、ベルリン郊外の湖畔に立つ豪邸であった。門の前には、多くの報道関係者がたむろしていた。シャルロッテは、

「ここには悪霊が住んでいる。ここから早く逃げよう。」

とアナに言う。電話がかかる。私立探偵のカイからだった。彼は、バンガローの浴室にあった血が、女性の生理のものであることを伝える。ヴィクトールは、アナ・シュピーゲルという女性の素性を洗うように、カイに伝える。電話を終えて、部屋に戻ると、アナは消えていた。アナの去った後、村長のハルバーシュテットが再び現れる。彼は、アナがフェリーの運転手に、

「私はラレンツ医師に貸があり、それは血によって支払われねばならない。」

と言っていたことを告げる。村長は護身用として、ヴィクトールにピストルを置いていく。ヴィクトールの体調が悪化する。最初は風邪かと思っていたが、症状はどんどんとひどくなっていく。熱にうなされたヴィクトールは、ヨズィーを助手席に乗せた車が、ブレーキの効かないまま海に向かって走り続け、最後は桟橋から海に転落する夢を見る。夜、室温の低下に気付いたヴィクトールは、停電していることに気付く。バンガローの電気は、外の小屋にある発電機で賄われていた。彼は、嵐の中小屋に向かう。そこへ着くと、発電機は回っており、家には再び電灯が点いていた。ヴィクトールは、そのとき、窓に人影を見る。

 翌朝、アナから電話が架かる。今回は電話でヴィクトールと話したいという。それは、シャルロッテとの逃避行の続きだった。彼らはベルリンからハンブルクに着く。シャルロッテは、

「自分を病気にしておきながら、あなたはその続きを書こうとしない。」

とアナを非難する。ホテルでアナはシャルロッテを寝かしつけた後、アナは続編を書き始める。

「シャルロッテは毒を盛られていた。」

ヴィクトールは、シャルロッテ、つまりヨズィーが、「ミュンヒハウゼン症候群」であり、毒を飲み、病気を装うことで、他人の目を引こうとしていたのではないかと考え始める。カイから電話は入る。カイは童話作家のアナ・シュピーゲルなる女性は存在しないことを告げ、身辺に注意するようにとヴィクトールに忠告する。ヴィクトールはアナが入院していたという、ベルリンの病院に電話をする。そして、「アナ・シュピーゲル」は、一年前に毒殺された看護婦見習いの名前であることを告げる。

 アナが再びヴィクトールを訪れる。書き終えた「シャルロッテの話」を持って。そこでカイから電話がかかる。電話を終えて密かにリビングルームに戻ると、アナがヴィクトールの飲む茶に薬を入れていた。ヴィクトール、

「お前は誰だ、何をしにきた。」

とアナに問い質す。アナはヴィクトールの茶に、風邪薬を入れただけだと言い、腹を立てたアナは原稿を暖炉の中に投げ入れ、燃やしてしまう。そして怒って立ち去る。

 ハルバーシュテットが三度目に現れ、シンドバッドが殺されて、ホテルのごみ箱の中で発見されたと告げる。犬の口には銀行口座の明細が詰め込まれていた。それは、昨日付けのもので、ヴィクトールの口座の全額が引き下ろされていた。預金に手を付けられるのは妻のイザベルだけ。ヴィクトールは妻を疑い始める。ヴィクトールは島に来てから何度も、米国出張中の妻に電話で連絡を取ろうとしていた。しかし、妻は常に不在であった。

 天候は益々悪化する。島へ来て四日目、アナがまたドアを叩いた。アナは最初とは異なり、服装や髪は乱れ、ひどい状態であった。ヴィクトールは、アナを寝室のベッドに寝かせ、彼女は眠ってしまう。自分も眠ってしまったヴィクトールは、何者かによって口を押えられている気配がして目を覚ます。身の危険を感じたヴィクトールはピストルを持って、二階の寝室に駆け上がる。アナは消えていた。嵐の中、再びドアを叩く音。ヴィクトールが開けると、電報の配達人が立っていた。電報はイザベルからのもので一言、「恥を知れ」とだけ書かれていた。

 ヴィクトールは村長に電話をする。村長はヴィクトールを訪ねた覚えなどないと言い張る。ヴィクトールは村長の後ろに何者かがいる気配を感じ取る。

@    犬はどうして殺されたのか。

A    自分の体調のすぐれないのは何故か。

B    村長とアナの関係は。

C    アナはそもそも何者。

ヴィクトールはそれらの謎を解こうとする。

 そこへイザベルからの電話が架かる。イザベルは、

「電話をしたら女性が取った。あんたは女性を引っ張り込んでいる。」

とヴィクトールを批難する。

 ヴィクトールはアナが落としていったメモを見つける。それは電話番号のようであった。その電話を取ったのは、ヴィクトールの診療所の跡を継いだ医師、ファン・ドゥルイゼンであった。ファン・ドゥルイゼンは、最近、カルテやファイルが盗難にあったことを告げる。また、アナ・シュピーゲルが自分の患者であることも。アナの病名は「ミュンヒハウゼン症候群」であった。また、アナをファン・ドゥルイゼンに紹介したのは、妻のイザベルであった。ヴィクトールは、自分の妻がこの事件に深く関与していることを知る。

 ヴィクトールは、アナを捜しだして、真相を問い詰めようと、嵐の中を出て行く。その時、彼の携帯にSMSメッセージが入る。それはアナから。

「シャルロッテが島に現れた。」

そう書かれていた・・・

 

<感想など>

 

 息もつかさず一気に読ませるテンポの良さ、文章の軽快さには感心する。これほど引っ掛かりのないドイツ語を書ける人も珍しい。十日程で三百ページ余を読み切ったが、おそらく、ネイティブのドイツ人なら、一晩で読んでしまう人もいると思う。発売と同時にベストセラーになったと言うが、この読み易さからすれば、それもうなずける。また、読者を引っ張り、捕まえて放さない展開も、素晴らしいと思った。

 さて、この物語のポイントは、「誰が真実を語り、誰が嘘をついているか」という点である。ヴィクトール・ラレンツの目から見た世界が描かれているが、彼が「正気」であり、真実を語っているという証拠は何もない。アナ・シュピーゲルという女性も、実在するのか、幻想なのか、最後まで分からない。「嵐の中、ぬかるむ道を歩いてきたのに靴が汚れていない」という点が、彼女の存在を暗示している。

 童話作家である自分の書いたことが実際に起こる、あるいは実際に起こったような幻覚を見る、という奇妙なアナの症状。また、彼女の描くシャルロッテと行方不明になったヴィクトールの娘ヨズィーとの偶然とは思えない共通点。何の目的でアナがヴィクトールに接近を図るのか。妻イザベルがどのように事件に噛んでいるのか。読んでいくうちに読者は色々なパターンを考える。私も色々考えた。作者の持っていく結末が、そんな単純なものではないと知っていても。

 夢野久作の「ドグラマグラ」を思い出した。精神病院で目覚めた男が主人公になっている点、「狂人の書いた推理小説」という点、精神病とその治療法が話題になっている点。まさかフィツェックが、「ドグラマグラ」を読んでいているとは思えないが、偶然の一致にしても、同じような視点での物語が、洋の東西で、五十年の時間を経て書かれたのは面白い。

 ヴィクトールは娘が行方不明になってから四年間、娘がまだ生きているのではないかという「希望」を持っている。それに対して、友人で私立探偵のカイの言う言葉は面白い、

「希望というのは足に刺さったガラス片のようなもの。それが肉に食い込んでいると、歩くたびに痛みが走る。それを取り除いてしまうと一時的には出血し、治るのには時間がかかる。しかし、最後には傷が治ってまた普通に歩けるようになるのだ。」

この言葉は、この物語の中で一番印象に残ったものだ。

 「セラピー」と言う題は、もちろん「サイコセラピー」のこと。精神科医のヴィクトールは、アナの語る奇妙な物語に魅かれて、ついつい彼女のセラピー、治療を引き受けてしまう。しかし、果たして、ヴィクトールがアナに治療を施しているのか、それともアナがヴィクトールに治療を施しているのか、最後には分からないほど、込み入った展開になる。また読者は四年後に、精神病院で身体を拘束された患者として最初に登場するヴィクトールを知っている。過去がその現在とどのようにつながるのか、それもひとつの興味である。

 この物語には二つの精神病が登場する。ひとつは「統合失調症」であり、もうひとつは「ミュンヒハウゼン症候群」である。「統合失調症」はかつて「精神分裂病」と呼ばれていたように、「精神機能の著しい分裂」が特徴であるという。妄想、幻覚がその症状のひとつであるという。アナは、自分の小説の登場人物が現れるという幻覚のために、この病気と診断されていた「ミュンヒハウゼン症候群」の症例としては、周囲の関心や同情を引くために病気を装ったり、自らの体を傷付けたりするといった行動が見られるとのこと。病名は「ほら吹き男爵」の逸話から来ている。

 作者のセバスティアン・フィツェックは、一九七一年ベルリン生まれ、現在もラジオドラマの脚本家として活躍している。この作品、なかなか楽しめて「お買い得」。この作者の他の本も、是非読んでみようと思う。ドイツ語でベストセラーになってから、直ぐに日本語訳が出ている。また、彼の作品が二十以上の言語に翻訳されているのも、彼の本の面白さを示していると思う。

 

201311月)