船内での禁句

 

これほどの夜明けはちょっと見たことがない。大西洋のど真ん中でそんな風景。

 

木曜日、サウスハンプトンを出航してから七日目になる。船は大洋の真っ只中にいる。消化のよいものや果物を、少しずつ食べるという方法が功を奏して、船酔いはぐっと楽になった。

朝起きて船の甲板を歩く。ヴェンチューラの下部甲板、プロムナードデッキを使うと、船をぐるりと一周できる。船の全長が二百八十メートル余、それに幅があるので、一周すると六百メートル以上になる。三周で約二キロ、結構な距離である。海の空気を吸って歩くのは、ジムのトレッドミルで歩くより、はるかに気持ちが良い。僕と同じように甲板をひたすら歩いている人に出会う。何度も

「グッド・モーニング」

の挨拶をする。船の中で会う人は、乗客も、乗組員も、ほとんどの人が会釈を交わしている。これは良い習慣だと思う。

しばらくして、水平線から太陽が昇る。大西洋のど真ん中の日の出、この世のものと思えぬほど美しい。一応写真に撮りマユミに見せるつもりであるが、写真でこの荘厳な風景の何分の一が伝わるであろうか。

「あら結構きれいじゃない。」

の一言で済まされそうな気がする。

前日の夕食の席で隣のマルコムが聞いてきた。

「モト、サウスハンプトンを出てから、他に船を見たかい?」

「ううん、サウスハンプトンを出てから、半日ほどオレンジ色の貨物船が同じ方向に走ってるのを見たけど、あれ以来船は見てない。」

と僕は答えた。一日に何度か甲板に出る機会があり、その度に水平線に目をやるが、確かに他の船を見た覚えがない。大西洋には何千隻という船が走っているはずなのに。海は広いのだ。

 例によって、午前、午後の社交ダンスのクラスに参加する。「シークエンス」という、皆で同じ動きをするフォークダンスみたいなもの習った。夕方に上部デッキのプールで泳ぐ。暖かくなってきたので、上部甲板のデッキチェアの八割が埋まってきている。

夕食のとき、

「モトはどうして、この船に乗ってみようと思ったの。」

とジョンが聞いた。

「映画で見て、実際自分でも大西洋を船で渡るって体験をしてみたかったんです。例えば『タイタニック』とか。」

ジョンが慌てて、指を唇に当てた。「タイタニック号」の話は、船内では禁句だったのだ。

 夕食のときメインディッシュに「マヒマヒ」のフィレというメニューがあった。テーブルの誰もが「マヒマヒ」が何であるか知らない。好奇心から注文してみる。タチウオであった。フンシャルの魚市場でタチウオが沢山あったのを思い出した。

 

船が南に向かうに連れて、上部甲板も賑わい始めた。

 

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