現代化への工夫

 

王立歌劇場の中。レストランとカフェのスペースが昔に比べて増えた。儲かるんでしょうね。

 

「全然違ってたねえ。」

「うん。」

歌劇場から外に出て、レスタースクエアの駅まで歩きながら、僕と娘は話していた。娘はボリショイ版を見ているし、僕はそれに加え、マリインスキー版を見ている。最初にも書いたが、今日見たのを合わせて、音声を消して、画面だけ見たら、誰もその三つが同じ話だとは思わないだろう。ボリショイ版は、十六世紀当時の衣装、背景、マリインスキー版は完全に現代に置き換えられており、登場人物は背広やワンピース、革ジャンにジーンズという姿、携帯電話や、ラップトップまで登場した。今回のロイヤル・オペラ版は、ちょうどムソルグスキーがこの作品を発表した、十九世紀後半の設定になっていたと思う。前のふたつのちょうど中間。少し古風な洋服を着た歌手が登場する。

 また、今回は二階建ての舞台というのが斬新だった。通常の舞台の上に、少し奥まってもうひとつの舞台というか、バルコニーが作られている。こうすると二つのストーリーの流れを同時に表現したり、登場人物の心理的な内面を表現したりできる。例えば、ボリスが歌っているときに、独楽を回している男の子が殺されるシーンが演じられる。それによって、歌っているボリスの心の中に、過去の行為と、それに対する罪悪感が広がっていることが観客にも分かる。これは、なかなか、観客をアッと言わせる、新鮮なアイデアだ。

 今回、僕がこのオペラを見るにあたっての最大の興味は、作品が、二十一世紀の英国の聴衆に合うように、どのように「味付け」されているかという点であった。ストーリーは、大部分の聴衆には縁もゆかりもない、十六世紀のロシアの、帝位を巡る争いの話。作曲されたのは今から百五十年前。

「これ、そのまま上演したら、見ている人は超退屈で、寝る人が多いやろうな。」

と思う。幸い、オペラは楽譜があるだけ。舞台装置や演出は、全て、製作者、演出家の「自由な発想」に任されている。今回の舞台装置や演出は、結構現代人の「受け」を狙ったものだと思った。同時に、「子供を殺して帝位についたボリスの良心の呵責、心の葛藤に焦点を当てる」という演出家の意図もよく汲み取れた。

 一番面白いと思ったのは、ボリスは最初「帝位に就いてくれ」という民衆の懇願を、「自分はそんな器ではない」と、一応拒否するところである。本人は、なりたくてなりたくて仕方がないのに。そして最後には、それを引き受けてしまう。自分が無欲な人間であることを宣伝するための演出。

「う〜ん、今の政治家と同じや。」

僕は呟いた。

「ところで、首相候補のボリスさんは、どないなるんやろ。」

個人的には、彼に首相になって欲しくない。

 

歌劇場のバルコニーから見たコベントガーデン。昔は中央市場だった。

 

<了>

 

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