ブルターニュ風人間関係

警視デュパンの事件簿

Bretonische Verhältnisse

 

ジャン・ルク・バナレク

Jean-Luc Bannalec

 

 

<はじめに>

 

フランス、ブルターニュ地方の美しい自然と、夏の風物詩を背景にした、殺人事件の物語。パリから左遷させられてこの地へ来た警視ジョルジュ・デュパンがその謎を解く。作者のバナレクの父親はブルターニュの出身で母親はドイツ人。ブルターニュの気質、風物、歴史が、平易なドイツ語で織り込まれていて、読み易い。

 

<ストーリー>

 

一日目

 

七月七日、その日のブルターニュ地方は晴れ渡り、文句のつけようのない天気であった。警視、ジョルジュ・デュパンは、彼の所轄であるコンカノーのカフェ「アミラル」で朝のコーヒーを飲んでいた。彼は二年六カ月前に、パリからブルターニュに転勤になっていた。

彼は、部下からの電話を取る。隣町のポン・タヴォンのホテル「セントラル」のオーナーが、自身のホテルで、他殺死体で発見されたという。本来、ポン・タヴォンはデュパンの担当区域ではないのだが、その区域の担当者が休暇中のため、デュパンが事件を引き受けることになった。デュパンはホテルへと向かう。

殺されたピエール・ルイ・ペネクは九十一歳、親からホテルを引き継いだ後、六十年近くホテルを経営していた。彼はレストランのバーの前で、身体を何か所も刺されて、血まみれになって倒れていた。辺りに争った跡はなかった。

デュパンはホテルのレストランを立ち入り禁止にし、従業員、泊り客に外出を禁じる。「セントラル」は十九世紀から続く、老舗のホテルで、ゴーギャンなどの有名な画家たちも、このホテルに滞在していた。

デュパンは死体の第一発見者である、ホテルの使用人、フランシーヌ・ラジューと話す。三十六年間ホテルで働く彼女は、朝食の準備のためにレストランに入り、主人の死体を発見したという。殺されたペネクは二十年前に妻を亡くし、その後、独りでホテルの一室に住んでいた。ラジューによると、殺される前に、ペネクに特に変わった振る舞いは認められなかったという。また、犯人の心当たりもないという。デュパンは次に、近くに住む、殺されたペネクの息子夫婦に会うが、彼らも、同じように、父親の最近の行動に、特に変わった点はなく、父親は誰からも恨まれるような人間ではなかったと証言する。

デュパンの部下の聞き込みによると、ペネクは殺される二日前、ホテルの前で見知らぬ男と話していたという。そして、その男が誰であるのかは誰も知らなかった。デュパンはペネクの古くからの友人のデュロンと話すが、彼も、ペネクに最近何も変わったことはなかったと証言する。電話の調査の結果、火曜日に誰かがパリのオルセー美術館に電話をしていたことが分かる。

デュパンは自分のかかりつけでもある医師、ガレクから、至急会いたいとの連絡を受ける。ガレクは、ペネクが殺される四日前に自分を訪れたことを伝える。その場でガレクはペネクに対して、心臓を病んでおり、手術をしない限りもう長くは生きられない、ひょっとすると数日の命かも知れないと伝えていた。ペネクは、手術を拒否すると言って帰って行ったという。殺されたペネクは自分の死期が近いことを知っていたのだった。

殺されたペネクには腹違いの弟がいた。政治家であるその弟、アンドレ・ペネクがホテルに到着する。しかし、彼はすぐに外出してしまう。マダム・ラジューの証言から、ペネクは息子や弟と、余り良い関係でなかったことを知る。検視の結果、ペネクは木曜日の真夜中頃に殺されたことが分かる。その時間、ペネクはひとりでホテルのバーにいるのが習慣であった。デュパンは、犯人がペネクの行動を熟知していることから、親しい者による犯行ではないかと疑い始める。

 

二日目

 

殺人事件のあった翌日の朝、何者かがホテルの窓を破って犯行現場に侵入した。デュパンは、事件の直後、最も警戒の厳しい時期に、危険を冒して侵入した人物の意図を探ろうとする。デュパンは現場を部下に任せ、署に戻る。そこで、彼はまず、殺されたペネクの異母兄弟のアンドレ・ペネクに会う。アンドレ・ペネクは殺人のあった木曜日の夜はツーロンにいたと述べる。デュパンは部下に、アンドレ・ペネクの行動を洗うように指示する。

その日の午後、デュパンは、ペネクの遺言状を管理していた公証人、マダム・ドゥ・デニスに会う。ペネクの遺言状は十二年前に書かれ、その後変更はされていなかった。遺言は、ホテルは息子へ、四件の不動産は、それぞれ美術協会、デュロン、ラジュー、息子に与えるというものだった。ところが、ペネクは公証人に電話をし、金曜日に遺言状を変更したい旨を伝えていた。デュパンはそれを知った何者かが、遺言状が変更される前にペネクを殺害したのではないかと考える。デュパンは身内の犯行ではないかとの確信を深める。

その日の昼、デュパンはペネクと親交があり、地元の美術協会の会長で、美術館の館長も務めるブヴォアと会う。ブヴォアは、ペネクが長年に渡り、美術館に高額の寄付を行ってきたこと、ペネクの死は、美術館にとって、パトロンを失うことになり、痛手であることを述べる。

ホテルに戻ったデュパンは、秘書のノルウェンに、美術の専門家と話したいので、連絡を取ってくれるように依頼する。ノルウェンはブレストの美術史の大学教授、マダム・カッセルに現場に来るようにと依頼する。デュパンは、レストランに、不相応な空調装置が設けられていることを不思議に思っていた。デュパンは、レストランに掛けられた絵の中に、高価な絵があると推理していた。

マダム・カッセルがホテルに到着し、レストランの壁に掛けられた絵を順に見る。彼女は、それらが、皆有名な画家の複製品、コピーであると述べる。しかし、彼女は一枚のゴーギャンの「ヴィジョン」という題の絵の複製品の前で、足を止める。

 

三日目

 

翌朝は朝から雨が降っていた。デュパンは鑑識に、マダム・カッセルが足を止めたゴーギャンの複製品の掛けられた時期が、他の絵と一緒かどうかの調査を依頼する。マダム・カッセルは、絵は明らかにコピーであるという。しかし、構図も色もオリジナルとは随分違っていた。

その時、デュパンは、殺されたピエール・ルイ・ペネクの息子、ロワ・ペネクの死体が海岸の崖下で発見されたという連絡を受ける。デュパンは部下と一緒に現場に駆けつける。ロワ・ペネクは墜落死であった。しかし、それが自殺であるのが、何者かに突き落とされたのかはその時点では分からない。

ずぶ濡れになりながら、崖の上にあるカフェに辿り着いたデュパンは、オルセー美術館に電話をしていたのはピエール・ルイ・ペネクではないかと考える。そして、その電話を取った美術館の職員に連絡を取ろうとする。数時間後、ノルウェンの調査の結果、それはシャルル・サウレという人物であることが分かり、しかもその人物は休暇で現在ブルターニュに来ているという。デュパンはそのサウレの滞在する村へと車を走らせる。

サウレの話によると、彼は火曜日に、ペネクから

「これまで知られていなかったゴーギャンの絵があり、それをオルセー美術館に寄付したい。」

という電話を受け、翌日、水曜日にペネクに会ったという。水曜日に目撃された、ペネクと話していた「見知らぬ男」はサウレであったのだ。サウレは、確かに、その絵はゴーギャンの描いたものであったと証言する。そして、その絵は美術史において、非常に大きな発見であるという。しかし、昨夜マダム・カッセルは、現在掛かっている絵は明らかにコピーであると言った。何者かがペネクを殺した後、オリジナルの絵を奪い、コピーと架け替えたのではないかとデュパンは推理する。

 デュパンは、その後、死体で見つかった息子、ロワ・ペネクの妻を訪れる。妻は、ペネク家が、代々隠されたゴーギャンの絵を所有していることを認める。その絵について語ることはタブーではあったが、家族やペネクの親しい友人の間では知られていたという。ロワ・ペネクの妻は、自分たち夫婦の他に、少なくともマダム・ラジュー、美術館長のブヴォア、異母兄弟のアンドレ・ペネクは絵の存在について知っていたと述べる。デュパンは誰もが、絵の存在を隠し、真実に対して口をつぐんでいたことを知る。

 ペネクが殺された後、レストランに掛かっていたコピーの作者が分かったという連絡がマダム・カッセルから入る。コピーの中には、巧みに署名が隠されていた。その名は「ブヴォア」であった。

 デュパンは美術館にブヴォアを訪れる。ブヴォアは殺人事件の発覚した翌朝、レストランに侵入して、絵を自分の描いたコピーと架け替えたことを認める。彼は、デュパンに、自分がレストランから外してきた「オリジナル」と考えられる絵の前に案内する。そして、その絵にナイフで切り付ける。ブヴォアは、自分がレストランから外してきた絵は、百年以上前に描かれたものであるが、やはりコピーであると言う。つまり、ペネクを殺した犯人が、オリジナルを百年前に描かれたコピーにすり替え、翌日、ブヴォアが、そのコピーを自分の描いた第二のコピーにすり替えたことになる。つまり、犯人は百年前に描かれたコピーの存在を知っており、それを手に入れることのできた人間なのであった。

 

四日目

 

 オルセー美術館員のサウレが、これまで隠されていた、未知のゴーギャンの絵が存在することをマスコミに話した。その記事がその日の朝刊に乗る。

 デュパンは、昨日から、何か心に引っ掛かることがあるのだが、それを言葉に出来ないことに焦っていた。彼は、マスコミや上司からの電話を無視し、海岸を散歩する。散歩の最中に、彼は、自分の心に引っ掛かっていた事柄に、自分なりの説明を発見する。彼は行動に移る。最初の行動は、公証人のマダム・ドゥ・デニスに電話をかけ、ペネクの残した不動産の目録を確認することであった・・・

 

<感想など>

 

 フランスの北西部に大きく張り出すブルターニュ半島は、フランスの中でも、独自の文化を持つ地方だという。ブルターニュがフランスに属するのは、一五三二年まで待たなければならない。元々はケルト系のブルトン人の住む地域であった。ブルターニュの人々は自分たちの文化に誇りを持っており、ブルターニュに二、三代住んだくらいでは、まだまだ「よそ者」扱いされるという。今回はその中でも風光明媚なポン・タヴァンに十九世紀に開業した老舗のホテルが舞台となる。

ブルターニュの美しさは、海と山の調和と言える。

「それ(ブルターニュの美しさ)は、ケルト語で言う『アルモニカ(海のある土地)』と『アルゴート(森のある土地)』の対比である。」

と述べられている。(五〇ページ)

夏の間、ブルターニュは、休暇を楽しむ人々で賑わう。ちょうどそんな頃に、事件は設定されている。

ブルターニュの美しい自然は数々の画家を引き付け、多くの画家がここで絵筆を振るった。特に、ポン・タヴォンは、画家たちの集まる場所であったという。ホテル「セントラル」のオーナーは、代々ブルターニュに集まる画家の良き理解者、パトロンであったことになっている。

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(一八四八−一九〇三)はフランスのポスト印象派の最も重要な画家である。

「一八八六年以来、ブルターニュ地方のポン・タヴォンを拠点として制作した。この頃ポン・タヴォンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン・タヴォン派いうが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。」(ウィキペディアによる)

ゴーギャンは後年、楽園を求めて、南太平洋のタヒチ島に移り住んだことでも有名である。

デュパンには、やはりヘニング・マンケルの描くクルト・ヴァランダーを思い起こさせるところがある。独身であり、上司や同僚たちを無視して、独自の行動基準で動く。

「私の職業の中で、いつも裏面を見る。物事や人間を別の側から見る。そのために私がいるようなものだ。」(一九〇ページ)

彼は自分の行動パターンをそう述べる。古いシトロエンを運転し、常にカフェインを必要とし、コーヒーをがぶ飲みし、胃痛に悩む。そして、協力者の美術史の教授、マダム・カッセルに好意を持ち始めている。次作での展開が楽しみである。

彼の父親はブルターニュの出身であったが、パリに出てパリの女性と結婚、父親はデュパンが六歳の時に亡くなったということになっている。つまり、デュパンはこれまで「パリっ子」であった。何故彼がブルターニュに左遷されたかについては、彼の上司や政治家に対しても容赦のない捜査と暴言が、パリ時代の上司の怒りに触れたということになっている。この辺り、「一匹狼」的な行動は、ヴァランダーそのものである。

有能な「スーパー秘書」、ノルウェンの存在は、ドナ・レオンのブルネッティ・シリーズの秘書、エレットラを思い出させる。

ドイツ語の読み易さに驚いた。これは作者がフランス語とドイツ語のバイリンガルであることのなす業なのだろうか。

 

20134月)

 

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