眺めの良い風呂

宇奈月温泉駅の前には、温泉の噴水が湯気を上げていた。

 

海を眺めた後、今度は山へ向かっていくことにした。また電車に乗り、反対方向の「宇奈月温泉、ウナヅキ・ホット・スプリング」へ向かう。電車の窓から、オレンジ色の柿の実が、太陽を浴びて光っているのが見える。「カキ・フルーツ」って、英国ではよっぽどの場所でしか売ってないけど、日本ではごくごく普通の果物なんだ。電車は山に向かって登りを始める。僕は黒部に住んでいるとき、何度も宇奈月温泉へ来た。でも電車で来たんじゃないよ。マラソンをやってた僕は、海岸の近くからトレーニングのために走って来たんだ。

それと宇奈月温泉へは、僕と妻が「新婚旅行、ハネムーン」に来た場所なの。ええ、山の中の温泉なんてちょっと渋すぎるって。どうして、もうちょっとは派手なところへ行かなかったのか。それには理由があるの。僕たちが結婚したとき、僕の海外赴任が数週間後に迫っていたの。新居を構える時間もないし、実際のところ新婚旅行に行っている暇もなかった。それで結婚式の翌日、近場ということで妻と一晩泊まりでここへ来たんだ。宇奈月温泉から「黒部峡谷鉄道、通称トロッコ電車」に乗って、黒部峡谷を観光したのを覚えてる。その後、独身寮の近くの旅館に泊まり、同僚とドンちゃん騒ぎをしたことも。

こう考えてみると、黒部と宇奈月温泉というのは僕の人生の中でも、結構意味のある場所なのだね。だから、今回は過去の記憶に引かれるように、この場所に来てしまったのかもね。

 駅の前には温泉の噴水が湯気を立てていた。少し先にトロッコ電車の駅があり、オレンジ色の、遊園地のおもちゃの電車のような車両が並んでいる。車両には椅子と屋根しかない。つまり、壁がない。しかし、冬の間はそれでは寒すぎて困るのか、普通の形の車両もあった。電車は、時々、これも小さな機関車に引っ張られ、ほぼ満席の乗客を乗せて出発していく。レールの幅は、普通のレールの幅よりもうんと狭く、二フィート余りかな。この鉄道、実はこの奥に作られることになった水力発電のダムに、資材を運ぶために引かれたものなんだ。ダムの建設が終わった後は、峡谷の景色が余りにもきれいなものだから、観光用として使われだしたってわけ。

カフェでコーヒーを飲んだ後、せっかく温泉地に来たのだから、風呂に入っていくことにした。銭湯、パブリックバスは見つからなかったけど、泊り客でなくても大浴場を使わせてくれるホテルがあった。義母も誘うが、いいというので僕だけ温泉に入りに行った。ホテルの大浴場は一番上の七階にあって、僕のほかに誰もいない。湯の温度は結構高くて、浸かると体がスベスベするような湯だった。

大きな窓から、紅葉の始まった山が見える。下を覗き込むと出発していくトロッコ電車が見えた。これは良いねえ。「眺めの良い風呂」。京都の母の家の向かいにある銭湯「船岡温泉」も良い雰囲気だけど、外の景色は見られないもの。こうして、きれいな景色を見ながら風呂に浸かるのもオツなもの。でも、「眺めの良い風呂」というのは、ひとつの矛盾だよね。風呂場から景色が見られるということは、外からも風呂場が見えるということになるから。

一時間ほどして下へ降りると、義母は「足湯」に浸かっていた。足湯は足首までを浸す温泉のこと。足からの熱が血管を使って広がり、身体がホコホコしてきと義母が言った。午後三時の電車で新幹線の乗換駅まで行って、四時十五分にはもう金沢に戻って来た。半日で、新幹線に乗り、海を見て、山を見て、温泉に浸かって・・・何とも密度の濃い一日だった。

 

オレンジ色のトロッコ列車が、出発していく。新幹線が出来て、これに乗る人も増えたことだろう。

 

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